眠られぬ真昼のために

非プログラマー。金属加工、夕飯のレシピまで、モノづくりは幅広く。

「いる」ことの難しさ

4月に知った本で一番のヒット。

その場に「いる」こと、これは私が以前聞きに行った講演会で、話をするときはまずはこれを心がけなさい、と言われたことです。
これがみんなできているようでできていない、感覚として身につけましょう、ということをそのとき言われました。
それを思い出しました。

この本を知ったのは、ずんずんさんのnoteがきっかけです。
私は転職してから1年とちょっと経過しますが、転職して2月ほど経ったころでしょうか、そこから感じ始めて徐々に大きくなってきた「居場所のなさ」という感覚、これに対する処方箋としていいんじゃないかな、と思って購入をしました。 
ずんずんさんは

私が集団で居心地の悪さを感じていたのは自分の境界膜のせいではないかと腹落ちした気がしました。私の境界膜は、一応は存在するけれど、とんでもなく薄く、それが強い人にちょっとでも押されると破れてしまいそうで、それが誰かに自分というものが浸食される恐怖となり、常に怯えていたのではないか、とそんな気分になったのです。

と境界線というところで腹落ちされたそうですが、私がなるほどな、と腹落ちしたのはこちらの本のちょっと別の部分です。

 僕らは誰かにずっぽり頼っているとき、依存しているときには、「本当の自己」でいられて、それができなくなると「偽りの自己」をつくり出す。だから「いる」がつらくなると「する」を始める。
 逆に言うならば、「いる」ためには、その場に慣れ、そこにいる人たちに安心して、身を委ねられないといけない

周囲の職場の人達の目が気になる、なんとなく居心地が悪いということを職場で感じていましたが、ああ、これは「いる」ということができないんだな、と状態に名前がついた感じがして腹落ちしました。
仕事ですから何もしないわけにはいかないんだけど「する」ことがないとき(あるんだけどできないとき)が残念ながらあります、そういうときに私は居心地の悪さを強く感じます。ま、当然か。
文中で筆者の後輩の著書にも触れられているのでこちらも読んでみようかしら。

心理臨床と「居場所」 (アカデミア叢書)

心理臨床と「居場所」 (アカデミア叢書)

本書とはちょっと異なりますが、そこに「いる」という感覚はコミュニケーションを取る上でとても大事なんだと思います。
人が(物理的に)複数いるんだけど、でも、そこにはだれも「いない」とき、そういうときがあります。
例えば会議で誰かが発言しているけれども、出席者のほとんどは別のところ(自分の発言は次だ!内容はこれでいいよな?とか)に注意が向いていて、発言している本人も出席者それぞれではなく空間全体に向かって話をしている、そういうときです。
そういった「いない」ときに何か言ったりしても響きませんよね。
まずは、そこに人が「いる」状態にする。
それから、コミュニケーションを(必要であれば)とっていくことが肝要だと思っています。
その「いる」感覚は本書の「いる」という感覚と通じるものがあると思いました。

今回ご紹介した居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)
こちらの本、京都大学出身で博士号を持ってらっしゃる臨床心理士/公認心理師の方が沖縄のデイケア施設における様々な出来事を通してコミカルなタッチで書くことで、ケアとセラピーについて触れてあります。
"デイケア"という言葉を聞くと、ああ、お年寄りの介護のアレね、と思うのですが、そうではなく、こちらは精神科のデイケア施設、日中に通う施設です。そういう施設もあるのだな、と本書を読んで初めて知りました。
過去に臨床心理士の方に相談していたこともある私の感覚として、臨床心理士というのはセラピーを行う職業の方だ、という頭がありましたが、ケアとセラピー、これは成分なんだそうです(詳しくは本書を読まれたし)。なるほどな、と思いました。
内容も素晴らしいのですが、文章の書き方が面白く引き込まれるのでおすすめしたい1冊です。